こんにちは、赤井ひろ美です。
今の私にできることに続いて、私が手術を目前にしても動揺しなかった理由について書いてみます。
それは、「設定変更」という考え方に出会えていたことです。
病気であっても、健やかでいられる
何年も前に、設定変更を教えてくれた先生のブログで、「病気であっても、健やかな状態であることは可能」というメッセージを受けとりました。「病気の私」という在り方をやめて、「私」で生きる。とても衝撃的でした。
でも、正直に白状すると、読んだはじめのころは「でも、先生自身が病気になったわけじゃないしな……」「本人が病気になっても、本当にそう思えるんだろうか?」と、少し疑っている自分がいました。
それは、私自身が「病気=悪いもの、治すべきもの」という設定を持っていたからです。
そのころ、セラピストとして15年ほど病気の方に関わってきた私は、病気を「治すべきもの、やっつけるもの、体に巣くった敵」くらいに感じていました。クライアントさんの病気をどうにかしたいあまりに、どれだけの時間とお金を注ぎ込んだことか。関わってきた方が旅立ち、お葬式に参列するたびに、力不足な自分を嘆いて、どれだけ落ち込んだことか。
そんな生き方をしてきた私にとって、「病気であっても健やかでいられる」「病気であってもしあわせでいられる」という考え方は、素直に受け入れられるものではありませんでした。
でも、もしそうだとしたら? 本当にそう在れるとしたら? それって、すごくすてきな生き方じゃない? なれるものなら、なってみたい。そんな望みを、ふんわりと頭の片隅に置いていました。
パリで出会った仲間
2017年12月、パリでの読書会に参加したとき、乳がんを経験した仲間とご一緒する機会がありました。病気について詳しく聞いたわけではありませんが、彼女のたたずまい、在り方を隣で感じているうちに、「この人は本当に、しあわせな在り方を決めて生きているんだな」と腑に落ちたのです。
そこから私も、在り方に疑問を持つことはいつの間にかなくなっていきました。
「あ、そうなんですね」
そして今回、病院でお医者さまに「これ以上よくなることはないので、手術をしたほうがいいと思います」と言われたとき、私は「あ、そうなんですね」と、まったく動揺せずに、すんなり受け入れていました。自分で自分に「おっ」と思いました。私、病気と自分をくっつけて考えていない。切り離せている、と。
「病気で手術を受けなくてはいけなくなった私」という視点で考えると、どうしても「私ってかわいそう」「なんで私が」とネガティブな思考が湧きがちです。そこから妄想はいくらでも広がるので、答えの出ないぐるぐる思考にすぐに陥ってしまう。悲劇のヒロインにもなれてしまいます。
でもそのとき私の頭にあったのは、「私は病気」ですらなく、「私の子宮頸部には異常な細胞がある」。ただそれだけでした。
そこからの思考は、「じゃあ、どうする?」「取っちゃおう」「よし、手術だ!」と、とてもシンプル。事実だけを見たら、次に何をするかがすっと出てきます。自分を不幸ともかわいそうとも、かけらも思いませんでした。
ああ、願ったとおりに、病気としあわせを切り離して考えられるようになった。病気であっても、私のしあわせにはまったく差し支えなかった。それを実感できて、うれしく思いました。
どんな在り方を選ぶかは、好みしだい
病気に限らず、あらゆる出来事が、私のしあわせに差し支えなくなりました。(ときどきは妄想にはまって、イタイ遊びをすることもありますけれど。)
もちろん、どんな在り方を選ぶかは好みです。「病気の私はかわいそう。私は不幸。慰めて!」という在り方が好みなら、そう生きればいいと思います。私はそれが好みではなかった、というだけで、そう考える人を否定しているわけではありません。
体調を崩していることや手術を受けることをブログで公開できたのも、「セラピストが病気になるなんて恥ずかしい。クライアントさんががっかりして離れていくかもしれない」という恐れを手放せたからです。これも、とても大きな変化でした。
